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更新日:2010年2月20日
![]() [毛利博物館所蔵] |
毛利元就は、毛利弘元の二男として、1497年(明応6)に安芸の国吉田で生まれた。21歳のとき、初陣で、有田合戦(後世「西の桶狭間」といわれた)に勝利し、一躍「安芸に元就あり」と言われるようになった。 27歳で毛利の本家をついだ元就は、50代半ばまでは、山口の大内氏と出雲の尼子氏の間で領国を守ることに終始した。中でも、1540年(天文9)~1543年(天文12)にかけての尼子氏による吉田・郡山城攻めと、大内氏に従った出雲侵攻は元就にとって大きな危機であった。1555年(弘治元年)元就59歳のとき、最大のターニング・ポイントが訪れる。陶晴賢(すえはるかた)と対決した「厳島合戦」(いつくしまかっせん)である。この戦いをきっかけに、元就は中国地方の大大名になっていく。元就は、1571年(元亀2)、「天下を望むことなかれ」と遺言して75歳の生涯を終えた。しかし、孫の輝元は元就の遺言にもかかわらず、関ヶ原合戦のときに西軍の総大将として徳川家康に敗れ、周防・長門二ヵ国に移封されてしまった。 |
元就が生きた戦国時代の、記録にほとんど残ることのなかった民衆の暮らしぶりや文化、町の様子を草戸千軒町遺跡(くさとせんげんちょういせき・広島県福山市)や万徳院跡(まんとくいんあと・広島県北広島町)、下右田遺跡(しもみぎたいせき・山口県防府市)、富田川河床遺跡(とだがわかしょういせき・島根県安来市)などの中世の遺跡からうかがい知ることができるようになった。元就の活躍を支えたのは、こうした人たちだった。
草戸千軒町遺跡は芦田川の河口に市ができ経済、文化が発展していったものであり、毛利元就の住んだ吉田では可愛川(えのかわ)の近くに市が立ち、町ができていったものと思われる。穀類、野菜、塩干物などの食料品や、衣類、武具などを扱う人々が行き来し、吉田に住む人も増えてきた。人が増えれば新たに家を建てたり道を整備したりしなければならず、さまざまな技術を持つ職人たちが吉田に集まってきた。こうした多くの人たちに支えられ、初めて毛利元就も、郡山城での生活を維持できたのである。
日本で初めて中世民衆史にスポットを当てた博物館で、草戸千軒町遺跡等に関する史料を収蔵・展示
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